おそらく「HSP(超敏感体質)」&「発達障害」のグレーゾーンである、佳見そらです☆ (飽くまで自己診断)
このブログで「生きづらかった私が、ラクに楽しく過ごせるようになるまでの実践方法や経緯」を紹介してきました。
現在は「不安を感じることはほぼなく」「気にしすぎず」「比較的ポジティブに」、かつ「変な自分」も受け入れて、生きています(*’▽’)
せっかくなので、私の「変なところ」や過去・日常をブログに記録中。
今回は、幼稚園年中までの「ココ、HSPっぽい&発達障害の傾向っぽい」という部分を書いていきます。「読みたい人いるの~?」「お役に立てる記事なの~?」と自分でツッコんでいますが…一先ず書くことにします( ;∀;)
すごく怖かった3つのもの
特定の音や光に、怖いものが多かったです。これはHSPと発達障害、どっちにも当てはまる!
私が怖かったものの一部を、ご紹介します。
電車の「ピー」
「風船の割れる音」とか「運動会のピストル音」とかも怖さ半端なし。でも堂々の第一位は、おばあちゃんの家に行く時に乗る電車。
何が怖いって、電車がホームに入る時、よく警笛が鳴るんです。「ピー」という大きな音に対する怖がり方は、尋常でなく‥。
両手で耳をふさいで、必ず階段の上で父親と待ってる。電車がホームに入って減速してから、階段を下りて電車に乗る、という感じでした。
ちなみに、うちの最寄りは地下鉄の駅で、地下鉄には怖い思い出なし。どころか地下鉄のホームの「におい」が大大大好きで、大人になってからも都内にわざわざ嗅ぎに行っていたぐらい(笑)…また別の機会に。
踏み切りと土曜ワイド劇場の光
たまに通る踏切は、いわゆる「開かずの踏切」。恐ろしいほど、開いてもすぐに「カンカンカン」って鳴るんです。
幼かったから「カンカンって鳴ったらすぐに電車が来る」と思っていたのでしょう。この音と赤く点滅する光の刺激は、私にとって「この世の終わり」だったのです。
光と言えば、当時「土曜ワイド劇場」というミステリードラマがあったのですが、オープニングの音楽と共にいろんな色の丸い光がテレビの画面に出てくるんです。
あれが怖くて怖くて。土曜の夜9時が恐怖。ってけっこう遅くまで起きてたんだなぁ(笑)
住んでいた団地
高層で、たくさんの棟がある団地でした。これは「住んでた時に怖かった」というより、「後々の人生に響いたよ、潜在意識的に」って感じ。
2歳までが13階(1DK)、5歳までが8階(2DK)に住んでいました。
記憶しているだけで5件、事件や事故がありました。小さい子がベランダのビール箱に乗って下を見ていて落ちたとか、結婚を反対されて男の人が女の人をおんぶして落ちたとか。
周りの大人はよく話してましたし、中には新聞に載ったものも。「今日も誰かが落ちたらどうしよう」「落ちる時ってどんな感じなんだろ」と考えていたことを、覚えてる…。
あと、真下の部屋に住んでいる人が、怖い感じでよく文句を言いに来てたなぁ。
入園後は、普通に一人でエレベーターに乗って、公園に行ったり同じ団地のお友達の部屋に行ったり。私だけでなく、周りの子もみんなそんな感じ。
変なおじさんや変なお兄さんに何回も遭いました。よく懲りずに一人で行ってた(行かせてた)よなぁ‥‥現代じゃ、あり得ないでしょ(‘ω’)
幼稚園が憂うつすぎる
年中からの入園。担任はハラダ先生、学年主任の26歳。今思えば、学年主任のストレス? いや、恋愛がうまくいってなかったのかもなぁ。
とにかく幼稚園に行きたくない。HSP特有の「刺激の多さや感情移入で、頭が疲れちゃってた」のかも。
ゲロを吐くと怒られる
私が見た限り、1年間でクラスの子が吐いたのは「のべ7回」。誰が何色のどんなゲロを吐いたのか、全部覚えてます(笑)
なんとハラダ先生は、吐くと怒るんです。「どうして吐く前に言わなかったの!」って。すんごい嫌な顔で拭いてるし。
吐いた子に毎回「かわいそう」って感じすぎちゃって、大変でした。「今日も誰か吐くのでは」「自分もいつか吐くかもしれない」って不安でしょうがなかったなぁ。
大人がいれば先生は怖くない
ハラダ先生の怒ってる顔に、80年代のアイドルみたいな髪型は全く似合いませんでした。
お芋掘りの絵で、何人かの子が「半分に切れたサツマイモ」を描いたら「半分のサツマイモなんてあったの?」って顔を震わせて怒り。
工作の時間に、きょろきょろして手が動かない私は「先生のお話を聞いてなかったの?」と、すごい目で怒られました。その他にもたくさん。
でも、カズコちゃんが遅刻してきた時、カズコちゃんのママが「昨日は榊原郁恵さんと共演させていただいたんですよ~。こないだはトシちゃん(アイドル)も間近で見たし。」と言っている時は笑ってる!
父親参観で「パパと手遊びや組体操」みたいなことをやった時も、うちの父親と私だけ手こずってばかり。その時も「あれっ?怒らないどころか笑ってるし優しいぞ!」
そう、途中から気づきました。ハラダ先生は
- 誰かのママやパパがいる時
- 男の先生に教わる体操の時間
- 園長先生が来た時
には笑顔になるってことを。
そういえば、「もうすぐ引っ越す」って話を母親とハラダ先生がしていた時、先生は「寂しくなります~。そらちゃんのことが大好きで~」なんて言ってたけど。私の心は「ほんとかなぁ(疑い)」。
ハラダ先生が激しく怒ると、私はいつも願ってました、「園長先生か誰かのママが来ないかなぁ」って(^-^;
泣かない子もいるんだ
ハラダ先生に怒られると、たいていの子は泣いてました。私は、他の子が怒られるのを見るだけで、いつも泣きそうでした(;’∀’)
でもミサちゃんは絶対に泣かなかった。口を結んで、表情を変えずに先生の怒りを聞いてるんです。
怒られ終わると、一人で黙々とブロックで遊んでました。ミサちゃんの表情は、やっぱり変わりません。
「ミサちゃんは強いなぁ。私もああなりたい。でも無理だよ」と思いながら、おそらく泣きそうな顔でじっとミサちゃんを見ていたのでした。
得意なことと苦手なことの差が激しい
誰にだって、得意なことと苦手なことはあるけれど。「その差が激しすぎる」‥発達障害の傾向の一つです。
先生に言われた通りにできない
今もそうなのですが。そもそも人の話をよく理解できないことがあります。
幼稚園の時も、先生の話を一生懸命に聞いているのですが、意味がよくわからない。わからないから「どうしよう、またわからない」って頭がパニックで、余計に集中できなくなる、みたいな。
極端に苦手だったのが、以下の2つと記憶しています(*‘∀‘)
- 折り紙や工作など「何かをつくること」
- ダンス、おゆうぎ、体操など「体を動かすこと」
この2つに関しては、「こうしてください」と言われたこともできないし、かといって「自由にやってみてください」と言われてもできない。
小麦粉と塩で粘土をつくる時なんか、何をどうすればよいのかさっぱりで、周りの子がやるのを見てもよくわからなくて、泣いてしまいました(鮮明に覚えてます)。
運動会のダンスやおゆうぎ会も、なんか一人だけ動きが変(だったらしいです)。記念写真とかも、なぜか両肩を思いっきり上げて首を45度に傾けてるポーズが多いし(*‘∀‘)
文字・数字と電話番号
とにかく文字や数字を書くのが大好き。幼稚園年中の頃から、絵日記をよく書いていました。
電話番号を覚えるのが得意で、自宅のはもちろん、おばあちゃんちや親戚、お友達の家とか、母親がよく電話するお家の番号は覚えてましたね。
昔はスマホも携帯もなかったから。隣のおばちゃんとお出かけした時「そらちゃんがいればアドレス帳を忘れても大丈夫ね」なんて言われてました。
Gメン´75と名前の記憶
通っていた幼稚園が「Gメン´75」という刑事ドラマの撮影で使われた時がありました。(あっ今調べたら、おそらく「Gメン´82」の方だ!)
「テレビに幼稚園が映る!」ということで、家族でその回は観たわけですが。体育館に子どもの絵がたくさん貼られているシーンがありました。
その一枚一枚の絵には名札がついているのですが、私は「こんな名前の子、幼稚園にいない」と言い張っていたそうです(;’∀’)
そう、幼稚園の名簿を見るのが大好きで、年少の子~年長の子まで「どんな名前の子がいるのか」だいたい把握していたのです。。。(当時は個人情報とかゆるかったしね)
親に「ドラマだから」という説明をされても納得いかなかったことだけは、今でも覚えています(^-^;
今が楽しいと…
なんか「この子、生きづらかっただろうなぁ」っていう記事になったかもしれませんね(‘ω’)
大人になってから「5歳までの時期を別の場所で過ごしていたら人生違ったかも」と思うことが、よくありました。HSPとか発達障害とかは関係なくね。
もちろん楽しい思い出もあったのですが、「怖い」や「不安」がすごく多かったなぁと。あっ東京のあの団地に住んでたって、こんな子ばかりではないですけど(笑)
でも今回書いてみて、自分としては「なんか面白い」って思えました。なんていうか、自己肯定感を少し高めて生きるのが楽しくなると、同じ過去を振り返るんでも感じ方が違うなって。
量子力学のなせる業だなぁと、改めて感じたしだいです(*^-^*)
最後までお読みいただき、感謝感謝です‥‥ありがとうございました。