昔から、無愛想な人が苦手。
物心ついた時から、苦手。
以前は、無性に腹が立ったり、傷ついてクヨクヨ落ち込んだり (>_<)
ここでは、無愛想な人が苦手な私の「ちょっと心がラクになる (マシになる) 考え方」と「無愛想な人が苦手だからこそ気づけたこと」を、まとめます。 (すみません、逆に「無愛想な人」は読まないことをオススメします‥)
無愛想な人とは
まず、無愛想な人とは、どんな人のこと? たとえば
- 人当たりが良くない
- 印象が悪い、感じが悪い
- 人とかかわる時にそっけない
- 思いやりや共感の姿勢が感じられない
- 好意や親しみが感じられない
- 言葉を発する時の抑揚が少ない
- 相手と目を合わせることが少ない
- 表情の変化が少ない
などだと「無愛想な人」と思われやすい気がします。 (一概に言えない部分もありますが‥)
無愛想な人が苦手‥こう考えるとラクに!
無愛想な人と接した時に湧き出る、ネガティブ感情 “(-“”-)”。
こう考えると、少しマシになるかも!
無愛想な人が苦手でもOK!
だいぶ以前の私は「無愛想な人が苦手な自分はダメ」と考えていました。
- 「無愛想な人が苦手」で嫌だ。
- 「自分はダメ」と思って嫌だ。
二重で苦しい‥ (>_<)
でも、とある職場の同僚が「私、感じの悪い人が嫌いなの。中身はいい人かもしれないのだけど、とにかく感じの悪い人って受け付けないのね」と言い切り、明らかに距離を置いていました。
なんか救われた気がしました。「ああ、感じの悪い人が苦手でもいいのだ」と。
主婦になってからも「無愛想な人って大嫌い」と悪口ばかり言う知人もいました。
誰にでも苦手な人はいるし、いていいのですよね。 状況に応じ「挨拶だけの関係にする」「最低限の付き合いにする」のも自由だし、がっつり付き合って嫌な思いをするのも自由、学びを得るのも自由‥‥。
「無愛想な人=悪い人」とは限らない
私も50年近く生きているので‥ (;’∀’)
無愛想でも
- 周りをよく見て、さりげなく気を配る
- 話してみたら、平和主義的な考え方
- 深く付き合ってみたら、いい人だし面白い
という人も、実際にいました。
ていうか、今思えば「無愛想で、かつ本当に性格も悪い」という人の方が少なかったかも。
- そもそも誰もに、(一般的に言う) 良い部分と悪い部分がある。
- みんな、いろんな部分を持っている。
- 無愛想な人は「ただ無愛想」なだけで、骨の髄まで悪い人というわけではない (場合が多いのかも)。
と頭でわかっていても、また無愛想な人が目の前に現れると、ちょっと拒否反応とか、体と心が緊張しちゃったりするんだけど (笑)
「無愛想な人=かわいそう」ということにして終了
無愛想な人が苦手、というより「大嫌い」という場合。
「かわいそうな人」だと考えてオシマイにする方法もあります。
ダラダラと「信じられない」「腹が立つ」と考えていても、単純に自分が楽しくない。 量子力学的に「さらに腹が立つような人や出来事」を引き寄せやすくなるので、自分が損するとも言えます (._.)
無愛想な人は
- ものすごく緊張している
- 人とのコミュニケーションが苦手で悩んでいる
- なぜだかわからないけど、無意識で無愛想になってしまう
- 過去に深く傷ついた経験、心の闇、トラウマがある
- いつも、すごく疲れている
などの可能性もあります。
改善するために努力したいけど「努力の仕方がわからない」とか「どうしても愛想よくできない」という人もいるかもしれず、逆に「愛想のよい人」をうらやましいと思っているかもしれません。
かわいそうな人だ。
そう考えて終了し、切り替えて楽しいことをできれば、その方が幸せなのではないでしょうか?
「無愛想な人=損している」と考えて終了
自分は一生懸命、愛想よくしているのに!
と思うと、余計に無愛想な人に腹が立ちます。
そんな場合は、こう考えてはどうでしょうか?
無愛想な人は、やはり損しているケースが多いと思います。 (一概には言えないけど)
- 単純に、嫌われやすい
- 「何を考えているかわからない」と思われやすい
- 接客業などではクレームが入りやすい etc.
仏教では「和顔愛語 (和やかな表情と優しい言葉で人に接する)」が善 (よい行い) とされ、徳を積むことにつながると言われます。
徳を積めば、その人に「良いこと」が返ってくる (可能性が高まります)。
最近は、量子力学という物理学の分野でも、説明されてきていることです。
ということは、単純に「無愛想は善ではない」ので、無愛想な人には「良いこと」が起こりにくくなります。だから「無愛想な人は損が多いのだ、かわいそう」と思って終了させるのも一つです。
全員が愛想がよかったらどうなのかを考える
この世の誰もが、愛想がよかったら‥‥
「愛想がいい」のが普通なので、愛想のいい人に好感をもつことも感謝することもないかもしれません。
また、「無愛想な人が苦手」だからこそ、言い方は悪いけど「人間関係をふるいにかけることができている」という可能性もある。
私たちは、今のところ体は一つで、時間も有限です。
「この世の人全員と、深く付き合う」ということはできません。
そこまでは極端だとしても、人間関係が多すぎると
- 脳・心・体が疲れる
- トラブルにまきこまれる
- 一人の時間や休息の時間がとれない
という可能性も高まります。
「付き合いたくない人とは付き合わない」ということをしなければ、身も心も持たない。と考えると「無愛想な人が苦手」だからこそ「この人は無愛想だから付き合いを最低限にしよう」と瞬時に気づけ、その点では感謝なのです。
無愛想な人が苦手だからこそ気づけたこと
それでも、やっぱり、今でも‥‥
私は若干、無愛想な人が苦手。だからこそ気づけた5つのこと。
無愛想な人は、自分の「何か」を映し出している
「人間関係は、自分を映し出す鏡」という説があります。
「無愛想な人が現れたから、自分も無愛想」という単純なものではなく、自分の「何か」を映し出しているのだということ。
その「何か」とは? たとえば
- 自分は無愛想な人を必要以上に恐れている
- 自分が必要以上に「愛想をよくするよう」頑張っている
- 自分も本当は、自由に無愛想でいたいのかもしれない
- 自分も無意識のうちに無愛想な時があるのかもしれない
- 自分も家族には無愛想なのかもしれない
- 幼少期に誰かから無愛想にされたのが「心の傷」となっているのかもしれない
- 過去生で自分が無愛想すぎて、人を傷つけたのかもしれない etc.
「無愛想な人が苦手」ということを、自分の本心を知ったり、自分を客観的に見たり、過去の傷などを想像する「いい機会」ととらえる。だから無愛想な人自体や「無愛想な人が苦手」という事実に感謝できると、視点が変わります。
「人間関係は鏡」ということに興味がある方は、以下の記事も。
★人間関係は、ただの鏡の法則。自分の習慣を変えると面白いことに! | 気にしない自分をつくろう!〜ラク楽イキ生きブログ〜
自分の本当の望みが隠されているのかも
私は「普通の表情をしていると、顔が怖い」と言われることが多かったです (;’∀’)
だから「普通の表情でなく、感じのいい表情をしよう」と頑張ってきました。
今でも、おそらく‥‥
- 人前で必要以上に「愛想よくしよう」と頑張っていて
- でも本当は、疲れている時や気が乗らない時は「普通の表情」をしたくて、
- だから「無愛想な表情をできている人たち」がうらやましいのかもしれない。
「自分は頑張っているからこそ、普通に無愛想な表情でいる人がムカつく」と思う人もいると思いますが、それはそれでOK。
今の私の場合「本当は、ありのままでいたいんだ」という自分の気持ちを再確認でき、ありがたいと感じています。 そして、きっと人前で無愛想でいるのも自由なのだけど、私が愛想よくいることを「選んでいる」のだとも思います。
なんと、自分も無愛想なことがあるのかも
以前、子どもの運動会の動画を見て「ガ~ン」。
自分の表情が、すごく無愛想で怖かったのです “(-“”-)”
もちろん誰かに話しかけられれば愛想よくする。と自分では思っていますが、自分の表情は自分で見られない、チェックできない。
人の行動の90パーセント以上が無意識と言われます。
「無愛想な人を苦手」と言う以前に、自分も無愛想なことがあるかもしれないのです (;’∀’)
外ではともかく「家族には無愛想な時もある」という可能性もあり、そうなると「無愛想な人」を否定できなくなる‥。
プロ野球・広島東洋カープの新井監督やロッテの荻野選手は、カメラに抜かれた時の「感じの悪い表情」を見たことがないです。これは本当にすごいことなのだと、改めて感じました!
自分の過去の体験が原因かも
物心ついた時から「無愛想な人が苦手」でした。
どうしてなの? 理由はないのかな?
と思っていた時に、田宮陽子さんや西田普さんのブログでヒントをいただきました。
もしかしたら、幼少期に母親から無愛想にされたことに傷つき「ママ、そんな顔しないでよ、笑ってよ」と叫んでいる自分が、心の奥底にいるのかもしれない。
そうだと仮定し、そんな自分の気持ちを受け入れ、幼い自分に寄り添い、優しい声をかけてあげる。今となっては母親の気持ちもわかるから、母親にも寄り添いつつ自分を一番に大切にできると、少し癒されるのかも。
無愛想な人を受け入れるのが、自分の課題なのかも
よく、結婚は「学び」「忍耐」「修行の場」などと言われます。
で、スピ的にはなりますが、配偶者はそれに適した人が選ばれるのだと。
私の夫は、無愛想なことが多いです。 家ではまだしも、外で顕著で、こっちが気を使うこともしばしば。
子どもが二人いますが、下の子も、どちらかと言うと無愛想。ていうか二人とも、人見知りが激しいのです。
なんていうか「無愛想な人を受け入れる」のが、今生での私の課題の一つなのかも、とも思います。 家族関係が、自分と違う人たちの「ありのままを受け入れること」の練習の場、みたいな (;’∀’)
まとめ:受け入れられれば、無愛想な人が減る
無愛想な人が苦手な私の「心がラクになる考え方」と「だからこそ気づけたこと」などを、お伝えしてきました。
おそらく、今回の記事で書いたことを「心から思える」「腑に落とせる」と、目の前から無愛想な人が減るのだと思います。
まあ「わかっちゃいるけど難しい」のかもしれないけど。
だから「なるべく、そう思えるように心がけよう」とかでいいのだと思うけど。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。